上山藩武家地の変遷
鈴木悠功
宮城県出身
北野博司ゼミ
目 次 はじめに/研究方法/研究結果?考察
本研究では、近世上山藩の武家地が描かれた6舗の絵図を用いて、家臣名や屋敷割りの変化を検討した。天明~文化期の絵図では藩士名簿である『分限帳』と対比し、身分と屋敷所在地の関係を検討した。また、藩作事方の『御作事日記』等の史料により、屋敷替えの背景についても解釈を試みた。
研究成果の一つは、上山城絵図の記載情報や藩士名張り紙の検討から、18世紀後半(天明期前後)の屋敷替えに伴う作業絵図と考えたことがあげられる。
もう1つは、上山城絵図(18世紀後半)と上山城下絵図(19世紀初頭)との比較により、同じ家が屋敷地を継承していると判断した例は77屋敷中23屋敷と非常に少ないことがわかった。
文化初年の分限帳と文化11年の上山城下絵図との比較では藩士名を同定できたのは174名中33名だった。
天明年間から文化年間にかけて武家地は目まぐるしい変化をしている。このことは「上山城絵図」、「上山城下絵図」、『御作事日記』、分限帳からわかる。
天明以前は百姓が住んでいた湯町も「上山城下絵図」の頃には武家地に編入された。藩士は80名から174名に増加し、両絵図にも記載されている藩士は、7名のみで、この他にも同一人物の可能性がある人物が2名いた。両絵図の時代差は30年程であるため、代替わりの可能性もある。
『御作事日記』から天明年間に6度の屋敷替えと5名の出奔(脱走)があったことが読み取れた。
このような事実は、藤井松平家支配の18世紀後半から19世紀初頭にかけて、上山藩では頻繁な家臣団の屋敷替えが行われたことを示唆している。
先行研究では藩主の財政難対策の不備に伴う政争が2度にわたってあったことが明らかにされている。藩士が藩主を隠居に追い込もうとしたり、藤井松平家の他藩が介入したりした。政争を企てた家臣の中には出奔したり、隠居に追い込まれるなど粛清された藩士がいたものと思われる。このような藩内のお家騒動が絵図に見た頻繁な屋敷地の移動に反映したものと考えた。