昨秋、今村翔吾『塞王の楯』という小説が石工の間で話題となった。昨年度下半期の直木賞受賞作だから御存じの方も多いだろう。日頃、城郭の石垣を修理している石工たちにとって、400年前の穴太(石垣築成者)が主人公の物語と聞けばいやがうえにも興味を掻き立てられる。
時は戦国の三英傑-信長、秀吉、家康の時代。ありふれた戦国武将の話ではなく、普通は表舞台には出てこない石積み職人と火縄銃を作る鉄砲鍛冶の若き棟梁たちの戦いを描いた作品である。片や城の守りを固める「石垣」、片や城を攻めて破る「鉄砲」。同じ近江の地にあってライバル関係にある二人が自らの技を極め、一方は絶対に破られない城を築く。一方は絶大な殺傷力をもった鉄砲?大砲でどんな城も攻め落とす。それは中国の故事にある「矛盾」の構図だ。
“楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人は「私の盾は頑丈で、貫くことのできるものはない」。また、「私の矛は鋭くて、どんなものでも突き通すことができる」と言った。ある人が「あなたの矛でその盾を突き通したらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった。”
『韓非子』より
理不尽な死が日常のなかにむき出しだった戦国の世。二人が突き詰めてきた技は、人と人が殺し合う戦場でこそ重宝されるものだった。誰も攻められない強固な城を築くか、誰も守れない圧倒的な武器を作ればやがて戰さのない平和な世の中が訪れる。平和を願いつつ戦わざるを得ない苦悩がそこにある。現代の核抑止力による平和の論理とどこか似ている。
この小説では作家自身が語るように「なぜ人は争うのか」「誰のために戦うのか」がテーマになっている。戦国歴史小説としてのエンターテイメント性に加え、「戦争はなぜ起こるのか」「人は望んでいないのになぜ争うのか」という人類史の普遍的な問いがあるので読後に余韻を残す。
石垣作りの技能者集団-穴太衆は大津市坂本に本拠をもち、比叡山延暦寺の土木工事を担当していた。古くは室町幕府8代将軍足利義政の東山山荘(後の銀閣寺)造営に参加し、信長の時代には日本初の総石垣の城―安土城造営に動員された。秀吉政権の時代になると天下人の城だけでなく全国の大名居城の石垣造りに派遣された。鉄砲は長浜市国友が大坂の堺と並ぶ二大産地だった。大津と長浜は琵琶湖の南と北、対峙する位置にある。
大津市坂本は比叡山観光の拠点であり、一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。延暦寺の門前町で里坊群の建築?庭園、穴太衆積みの石垣?水路等が緑深い樹木とマッチしてすぐれた歴史的風致を形成している。 京都駅からJR湖西線で約15分、比叡山坂本駅で降りて日吉大社に向けて歩くと、道の両側に見事な穴太衆の石垣を見ることができる。
近年は文化財石垣保存技術協議会の技能者研修を坂本で実施しており、参加者にはまず先人の残した遺産をじっくりと観察してもらうことにしている。
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実は長浜市国友にも懐かしい思い出がある。1998年に私は県教委文化財課からこの年に新しくできた財団法人石川県埋蔵文化財センターへ異動となった。最初の仕事が金沢城跡三ノ丸の発掘調査だった。兼六園に隣接する石川門から金沢城公園に入ると正面に案内所?休憩所、裏にトイレがある。その新設工事にかかる事前調査だった。
掘り始めてしばらくすると焼けた地面が現れ、そばから正体不明の金属片や小さな鉄片、鉛塊がたくさん出てきた。あわてて所員らと絵図や史料を調べていくとそこは城内の鍛冶工房で、それらが火縄銃の部品であることが分かった。目当、火蓋、火挟み、引き金、弾金、ゼンマイからくりなど、旧式の火縄銃の部品一式があった。1cm未満の薄い鉄片は鍛造剥片(たんぞうはくへん)といって、赤く焼いた鉄を槌で叩いた際に飛び散る不純物の皮膜だった。
中には裏文字で「國」「住」「助」「當」「金沢」と読めるものがあった。国友や堺の鉄砲には銃身にタガネで「江州國友長助作」「江州國友作助重當」「摂州住嶋内市右衛門」のように作者名を刻むものがあるので、銃身をメンテナンスしたり、再鍛錬していたものとみられた。
どうもここでは旧式の火縄銃を雷管式のような洋式銃に改造する作業が行われていたようだ。火縄銃の部品だとわかってすぐ、現場担当者らと車を飛ばして長浜の国友鉄砲鍛冶資料館(現国友鉄砲ミュージアム)と長浜城歴史博物館に行ったのを思い出した。百聞は一見に如かず。
ちなみに加賀藩は嘉永5年(1852)に大砲鋳造を行った際、国友次郎助という職人を近江から招いている。金沢市寺町の浄安寺にはユニークな大筒形のお墓が立っている。
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今年の3月は各地のお墓を巡って歩いた。歴史上の人物や有名人のお墓参りを趣味にしている人たちを「マイラー」という。「参る人」の意だ。2010年版の『現代用語の基礎知識』から登場したが、「掃苔家(そうたいか)」という言葉が昔からあってマイラー習俗は今に始まったことではない。
私のゼミでは昨年度、鶴岡市から委託を受けて庄内藩酒井家の墓所を調査した。
墓所にある墓標や灯篭、花立など約150基の石造物を実測し、関連史料を集めて研究成果をまとめた。その過程で東京の菩提寺でヒアリングしたり、芝増上寺、高輪泉岳寺、品川清光院、池上本門寺で諸藩の大名家墓所を見て回った。スケールの大きな宝塔や五輪塔は造形的にも美しい。泉岳寺は忠臣蔵の聖地と呼ばれ、浅野長矩と赤穂浪士47人のお墓がある。
東京の寺院墓地はマイラーにとっては飽くことのない場所だろう。墓標形式は将軍家をはじめ大名家毎に個性があるし、年代的な変化も見て取れて実に興味深い。墓地を公開しているのは歴史遺産としての公共の価値が周知されているからだろう。
南相馬市小高区にある同慶寺では学生と一緒に中村藩相馬家墓所の墓標26基を計測した。かつてはすべて手実測で時間もかかったが、いまはフォトグラメトリー(SfM-MVS)の手法でオルソ画像が作成できるので現地作業はずいぶん楽になった。写真をオーバーラップさせながら何枚も撮影し、PC上で三次元に合成する。高い所は撮影用ポールの上にカメラを付け、スマホでリモート撮影する。
鶴岡市の酒井家墓所では1基ずつ観察、計測して作るカルテとあわせ2週間で現地作業を終えることができた。相馬家墓所は3月16日に震度6強の地震に襲われ、五輪塔や灯篭の多くが倒壊した。これから復旧にかかるがその前に計測できたのは不幸中の幸いだった。
同地震では仙台市の経ヶ峯伊達家墓所(瑞宝殿)にある200基余りの灯篭も甚大な被害を受けた。いま学生とともに被害調査に取り組んでいるが、ここではiPadやiPhoneのLiDARスキャナ(レーザー光の反射を利用して距離を測定)を使って3D計測をしている。LiDARは車の自動運転システムとともに普及し、今やスマホでも数分かからず物体の3Dモデルを作ることができる。遺跡の発掘調査や出土品の記録、博物館資料の公開など文化財分野では欠かせないアイテムになっている。
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南相馬のあとは大坂城の石垣調査に出て、その足で和歌山県高野山に出かけた。高野山は平安時代、弘法大師空海によって開かれた日本仏教の聖地である。真言宗総本山金剛峯寺をはじめ、信仰の足跡は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、現在もたくさんの巡礼者を集めている。さながら日本の「サンティアゴ?デ?コンポステーラ」というところだ。親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らの名僧もここで修行した。四国八十八ケ所巡りをコンプリートした巡礼者は最後に御礼参りとして高野山に参詣する。大師廟のある「奥之院」には戦国期から100以上の大名家が分霊墓を置いた。
織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、石田三成、徳川家歴代将軍、諸大名家。ここに来れば名だたる歴史上の人物にいっぺんに会うことができるという、歴史好きやマイラーにとっては堪らない場所なのである。奥之院全体でお墓の数は20万基ともいわれるが正確な数は誰もわからない。現代の有名企業社長らもこぞってここにお墓を立てている。
今年は高野山も例年になく雪が降り、3月半ばでもまだ残雪があった。参道沿いには武将名を書いた標柱が整備されているが、一歩中に踏み入ると道はなく迷路のようになっている。なんとか酒井家と相馬家の墓所を探りあてフォトグラメトリー用の写真を撮影してきた。スマホ片手に高さ5mのポールを掲げてよろめく姿に道行く参拝者はさぞ不審に思ったことだろう。
帰りしな参道の脇にあった「大津籠城戦死者追弔碑」の標柱に目が留まった。そうか、これがあの『塞王の楯』のクライマックス、大津城攻防戦で亡くなった京極家の侍たちの供養塔か、とすぐにピンときた。そばには蛍大名と揶揄されながら、小説では人望厚い名君として描かれた大津城主京極高次の墓もある。奥之院のあらたな注目スポットになりつつあった。穴太衆を率いる飛田屋匡介と国友鉄砲衆率いる彦九郎の手に汗握る攻防を思い起こしながら高野山のワインディングロードを駆け下りた。
その日は紀の川沿いの九度山町に泊まった。九度山は上田城主であった真田昌幸?幸村(信繁)父子が関ヶ原の戦い後に蟄居した地として知られる。14年後、幸村は秀吉の恩義に報いるため大坂の陣に参戦し、最後は大坂城真田丸で討ち死にした。いまも根強い人気がある武将である。九度山の宿の主人は以前働いていた大阪の会社を脱サラし、先にここで古民家カフェ(「げんじろうの昼ごはん」)をやっていた奥さんと2018年から旅館業を始めた。
げんじろうは夫妻が飼っているペットのうさぎ店長である。築100年の古民家の2階座敷は1日1組限定で、ほかに敷地奥の崖際に二部屋だけの小さな離れ(手作り感満載)がある。
テレビはなく床はちょっと傾いているが、Wi-Fiが飛んでいて必要最低限のアメニティも揃っている。晩ご飯は奥さんの創作料理で、食後にはマスターがセミプロ級のカードマジックで楽しませてくれる。お風呂は近くにある温泉施設に送迎。早朝に出立する巡礼者のために朝食は冷蔵庫に一式収められている。コロナ前は外国人にも人気の宿だった。民泊のような温かさがあって私もお勧めする。
1か月後、一人で高野山に行ってきたというゼミの学生。教えたわけでもないのに泊まったのが同じ宿だった。う~ん、どうも志向が似てきたようだ。
(文?写真:北野博司)
BACK NUMBER:
#01 プロローグ
#02 タイ?ラオス旅から、危機との向き合い方を考えた
#03 なぜ、旅先で髪を切りたくなるのか―タイ?ラオス旅
#04 盛夏を普通電車で行く
#05 初秋の久松山?鳥取城跡に想う
#06 お城と動物園
#07 石の声を聞く-盛岡城跡の「双子石」
#08 石垣のArt & Design
#09 愛の行方-米沢城跡の今に思う
#10 北の旅、南の旅
#11 旅の宿
関連ページ:
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北野博司(きたの?ひろし)
富山大学人文学部卒業。文学士。
歴史遺産学科教授。
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専門は日本考古学と文化財マネジメント。実験考古学や民族考古学という手法を用いて窯業史や食文化史の研究をしている。
城郭史では遺跡、文献史料、民俗技術を駆使して石垣の構築技術の研究を行っている。文化財マネジメントは地域の文化遺産等の調査研究、保存?活用のための計画策定、その実践である。高畠町では高畠石の文化、米沢市では上杉家家臣団墓所、上山市では宿場町や城下町の調査をそれぞれ、地元自治体や住民らと共に実施してきた。
自然と人間との良好な関係とは、という問題に関心を寄せる。
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